「違う、あれは違う。誤解だ」
「誤解もなにもないわよっ」
控えめながらも拳を振り上げる里奈の肩を、ツバサが背後からそっと抑える。
「シロちゃん、どうしたの?」
できるだけ小さく、刺激しないように、囁くように声をかける。
「落ち着いて。落ち着いてよ」
ツバサに宥められ、息を荒げて俯く里奈の姿に、美鶴は小さく唾を飲んだ。そうして、唖然とした表情の聡をそっと盗み見、息を吸った。
「里奈、ひょっとして」
まさかとは思うが。
「聡の事が好きなの?」
途端、里奈はガバリと顔をあげ、大口を開けて何かを言おうとした。だが次には聡を見上げ、一瞬躊躇い、そうしてクルリと背を向けると、ツバサを振り払って駆け出してしまった。
「シロちゃんっ」
ツバサは一瞬美鶴を振り返り、だが結局は里奈を追って駆け出した。
後には二人が残された。
そうだったのか。
二人の去ってしまった路地をぼんやりと見つめ、美鶴は心内で呟いた。
里奈が、聡を。
いつから? 小学生の時から? 中学生? いやそれはない。だって中学に入学した里奈は、蔦康煕と付き合ったのだから。そしてその後には澤村。
じゃあ、こうやって再会してから?
夕闇が迫ってくる。寒さが深まる。冷える指先を無意識に擦った。
里奈が、聡を。
悴む指先を擦り合わせる。その手に、大きな手が重なった。
「帰ろうぜ」
美鶴は咄嗟に手を引いた。見上げる瞳を、聡は何の感情も込めずに見下ろす。
「冷えてきた。風邪を引く」
「知ってたの?」
問いかけに、聡は小さく瞬きをする。
「里奈の気持ち、知ってたの?」
「知らなかった」
即答する。それ以外に答えようがない。
「知らなかったよ。知らなかったし、信じられない」
なんだって田代が俺の事を? 礼を言いたいだなんて話といい、何がどうなっているのかさっぱり理解できない。嫌われるような言動には身に覚えがあるが、好かれるような覚えは無い。
「冗談だと思いたいよ」
「里奈はそんな冗談が言えるような子じゃない」
見たところ、昔から変わっていないはずだから。
「冗談ではないよ」
「やめようぜ」
聡が強引に遮る。
「ここで田代の話をしてたってどうにもならない。身体が冷えるだけだ。俺たちには関係ないし」
「関係ないことないでしょう」
美鶴が少し声を大きくする。
「聡、アンタ里奈に好かれてんのよ」
「だから何だよ」
「アンタは里奈をどう思……」
「あり得ねぇよっ!」
聡は抑えていた感情をぶつけるように叫んだ。そうして両手で美鶴の肩を押さえる。
「あり得ねぇ。俺が好きなのは美鶴だけだ。他なんて、田代なんてあり得ねぇよ。それとも何だ? お前、まさか」
まさか、俺と田代がくっつけばいいだなんて思っているのか?
口に出さなくても、考えるだけで激情に包まれる。
「ふざけるなよ」
「痛い」
「冗談じゃねぇ。俺が他の女とだなんて」
「痛いって」
「そんな事を一言でも言ってみろ。俺は」
「痛いってば」
美鶴は無理矢理両手を引き剥がし、後ずさりする。向かってこようとする相手を視線で制止、見上げた。
「私、何も言ってない」
「言ってるようなもんだ」
「勝手に解釈しないで」
苛立ちを含ませて視線を逸らし、無造作に前髪をかきあげた。銀梅花の香りはしない。
霞流さん。
途端、切なさのような感情が湧き上がる。再び聡を見上げたが、見続ける事はできなかった。
視線を逸らし、そうして結局は背も向ける。
「帰る」
「送ってく」
「来ないで」
それでも強引についてこようとする聡を肩越しに制する。
「一人で帰る。ここからなら時間もかからない」
「でも」
「お願い、一人で帰らせて」
片手を額に当てて懇願するような表情。聡は足を止めてしまった。
薄暗い景色の中に儚く漂う残り香のような微かな夕陽。オレンジ色の陽が白い横顔に差して、その明るさと暗闇の陰がゆったりと波を打った。疲れたような表情で落とした気怠げな視線。白い息を吐く唇にチラリと夕日が光り、濡れたように揺れた。
艶麗な気配をも醸し出しているかのようなその表情に、聡は思わず見惚れてしまった。油断し、隙が出来てしまった。
「お願い」
それだけ言うと、美鶴は駆け出した。聡は追えなかった。
「美鶴」
夕闇に消える背中に、切なさを込めて小さく呟く。
どうして、何がどうなっているんだ? 田代が俺の事を? 嘘だろ? 嘘だと思いたい。信じられない。
もし本当だとしても、嬉しいなんて気持ちはこれっぽっちも沸かない。
アイツのせいで。
苛立ちに拳を握る。
これ以上美鶴との関係を厄介にはしたくない。これ以上美鶴の心が離れていってしまうのは嫌だ。だから――
脳裏に浮かび上がる子犬のような瞳。
どうしてアイツは、こうも俺の邪魔ばかりをするんだ。
これだから女は嫌いなんだ。
「本当にごめん」
電話の向こうで頭を下げている姿が目の裏に浮かぶ。ひょっとしたら、ベッドの上で土下座でもしているのではないか? そう思ってしまうほどの声に、美鶴は小さくため息をついた。
「別にいい。気にしてない」
「でも、事の原因は私だし」
ツバサの言葉はどことなく切羽詰った感じでもある。彼女の性格を考えるとわからないでもない。何事にも拘らず、サッパリとしているように見えて、かなりあれこれと悩む一面も兼ね備えている。だから、本当にツバサが自分の行動を悔いているのもわかる。
「私がグズグズしていたのも悪かったんだ」
「そもそも、美鶴に頼むというコト自体が間違いだったんだよね。私、金本くんの気持ちも考えずに、美鶴の気持ちも考えずに」
グッと言葉に詰まる二人。
聡の気持ち。美鶴の気持ち。
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